昭和46年11月14日 朝の御教話 (おかげの泉第28号)
御理解 第42節
「これ程信心するのにどうしてこういう事が出来るであろうかと思えばもう信心は止まっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い一心に信心して行けばそこからおかげが受けられる。」
これ程信心するのに、どうしてこう言う様な事が起こるであろうかという事もある あんなに熱心に信心しょんなさるとに、どうしてあんなに不幸が続くであろうかと、言わば言う事もある。そういう時に信心が挫折する。信心が鈍ると言う様な事であってはならない。そういう時であればある程に、これは未だ信心が足りぬのだと思うて、そこからまた一段と進めた信心、一段と進んだ信心になって行けば、そこからそこからおかげが受けられるとこう。この四十二節はそういう事でありますわね。
お互いが一生を過ごさしてもらう、送らしてもらう間には、様々な事がございます。その様々な事がおかげ、例えば「難は霊験」と「難あって喜べ」と仰るような御教えがありますようにです、ね、その事をおかげと頂かせてもらえる信心。ね、そこん所が解るという事、今日はそこんところので3すね、もっともっと根本的なもの、もっともっと根本的な所から、そういう見地から四十二節を頂きいきたいと思います。
私御祈念中に御神前で頂いた事は人篇に(ニンベン)に片仮名の“ム”と言う事一寸と書いて見て下さい。人篇にム、片仮名のム仏と読みますね。仏(ぶつ)と言う字です。そして、いまここで今日はどういう御教えを頂くであろうかと思うて、教典を開かせて頂いたら四十二節でした。四十二節はシニ、と読むですね。“死に(シニ)”となりますね、四十二ですからシニでしょう。
私今日は仏さんの事を頂いたり、死ぬるという事を頂いたりするという事は、なんかま普通で言うなら縁起でもないことだな、といったような感じですけれど、私共はですね、言うならばね、生まれて来たという事はもう死ぬるという事なんですよ。生きどうしに生きるという事は出来ないのですから。言うならば死ぬるために生まれて来るんです。私共は。問題はその死んでからが問題なんです。ね、私共はいうならば魂がです、信心によっていよいよ清められ、高められて、ね。
さあ、たいてい長生きしたところで百年、ね、そのいうならたった百年なんです。長生きしたところで。ね、その百年の間にね、私共がね、仏になり、言うなら死ぬる準備というものをさせて頂くことの為に、この世に生を受けておるのです。だからこれは私共ですね、いわゆる人篇(ニンベン)にムという事は仏という、それをもう少し理解づけると、ね、人が無、人が亡くなるという意味です。人が亡くなるという事が仏なんです。教祖様もそこんところを「信心して死したる後、ね。
死したる後、神に祭られることを楽しみに信心せよ」と仰せられる。この辺のところが教祖のいわば表現の素晴らしいところですね。「死したる後、神に祭られるという事を楽しみに信心せよ」。だから信心ということは死したる後、神にまつられる程しのおかげを頂かしてもらうという事の為に信心があるのである。私共は、ね、生きとる間にこんところを頂いていかなければいけん。ね、亡くなった者の事を仏という、ね。死人の事をこの仏がと申しましょう、この仏様がとこう言う。
そんなら金光教のご信心をしておればです、誰でも神になれるかというと、例えば、ね、霊(みたま)の神というから、ここでいう神というか、仏というのはね、言うならば成仏という事。ほんとの意味に於いて仏になるということ。教祖様が死したる後、神に祭られる事を楽しみに信心せよと、仰せられるのは、ほんとに私達自身が我と我心が拝められる神のこと。昨日からも申しておりますようにですね、御礼の御霊(みたま)、ね、それには私共がお礼のね。
日々神恩感謝の心、もうすべてに御礼の言えれる私共に成長していかなければならないという事。もう信心のね、例えてここを申しますと、「これは未だ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心をしていけば、そこからおかげが受けられる」というおかげはです。今までどうにも出来なかったおかげが、所謂ご利益がですね、展開してくると言う意味なのです。けれどもここんところは、今日はもっともっとあの深い意味に於いてのですね、おかげが受けられるというおかげというのは、私共が難儀に直面する。
その難儀に直面したときに「これは未だ自分の信心が足りんのじゃ」ということは、未だ自分の本心磨くのが足りんのじゃ、これは未だ自分の改まりが足りんのじゃ、と一心に磨いて行けば、改まっていけば、そこから一歩でも二歩でも神様に向かって前進する事が出来るというおかげなんです、今日はここんところをそういうふうに頂いておる訳なんです。言うなればです。
本当の意味においての死したる後、神にまつられるという事をという、その神になる事の為の準備が一段々、難儀なら難儀に直面した時に、信心してどうしてこのような事が起こってくるのであろうかと言う時に、このような事を通して、私どもは一段と神様に近づいて行くという事なんです。私共が信心して、本当の意味において、ね、死したるとき、もうほんとの意味に於いての仏、いわゆる成仏ということ、本当の成仏が出来る事の為に一段と仏に近づき、また、一段と神様へ近づいていく。
それがそのまま信心であると言う事と同時にです、それをいわば楽しみに信心する。是は信心が足りぬのじゃと思い、一段とそこから信心を進めていくという事は、ね、一段と自分の心が神に向かうという事になるのです。今日例えば今申しました様な事を頂きますとね、信心と言うのは、ね、私共がこの世に生を受けて来たと言う事は、ね、私共が死したる後、ほんとに神になる事の為にこの世に出てくるのである。
天地の親神様の目からご覧になれば生きとし生けるもの、こりゃもう一切植物であろうが、動物であろうが同じこと、牛でも馬でもやはり神様のいわば氏子というても私はよかろうと思う。神様の御恩恵によってお生かしのおかげを頂いておるですから。だからいかに牛やら馬やらが死んだからというて、神になる事は出来んのです。ね、そんなら人間だから死したる後に、仏になれたり、神になれたり出来るかと言えば、決してそうじゃないです。人間は自分で自分の心。
いわゆる良心というものがあって、その魂のその心の高められていくこと、清められていく事が出来るのは人間だけです。ですから私どもが心掛けいかんによってはです、ね、人間であるけれども神になる事が出来、仏になる事が出来れる訳です。だからまあ、これは仏教的に言うならば、人間でこの世で折角人間に生まれて来たのだけれど、ね、死んだら馬にならにゃんか豚にならにゃんかわからんです。
汚い事ばっかり言いよったら、死したる後神に祭られる所か、仏にまつられる所か、豚んどんにならにゃんか知れませんよね。馬にならにゃんかしれませんよ、是はお釈迦様の説をかりればですよ。ですから人間がいかにこの世に生まれて来たかという事は、魂を清めに来たのだという事です。人間に生まれあわせたと言う事は、その事だけでも大変なおかげなんです。この世に人間で人間に生まれて来たと言う事は、どれだけのたとえば年数をくって、例えばそのお釈迦様の生まれがわり説ですね。
輪廻(りんね)説というでしょうか。と言うようなものから思わして頂くとです、人間に生まれて来たという事だけでもこれは大変な事。その生まれて来た事を大変な事とも思わずに、一生を悪なら悪で過ごし、ね、汚い過ごし方をするならです、また汚いものに生まれてこなきゃならん事になるです。だから問題はね、人間はこの世に清まりに来たんだという事をほんとにわからにゃいけんです。
この世に清まりに来たという事は、いよいよ成仏する事の為にいよいよ神に祭られるという事の為に、それを人間に生まれて来たという事を第一に喜びとさせて頂いて、人間に生まれた事の有難さを満喫させて頂きながら、日々の生活を御礼の生活が出来るように精進さしてもらい、そういう道を教えられる。四十二節はただそれは信心が足りぬのだと思うて、一段と信心を進めていくという事は、そういう、ね。
信心しておっても、こういう事が起こってくる、こういう事というのは、一段と神様へ向かうことの出来れる、言わば節(ふし)でもあれば、ね、神様へ近づいて行く、行けれるいうなら手段でもある訳です。ですからその事自体が実に有難い事なのです。一段と信心を進めなければなおられないのです。それに信心しょってどうしてこういう事が起こるじゃろかと言うて、神様を恨んだり、ね、もう信心もいい加減なものだというて、信心をやめたりするような事はもう実に惜しい事になりますね。
とにかく私共は、この世に魂を清めに来ておるんだという事なんですよ。魂が清まる。ね、いわば一歩仏へ近づく、一歩神様へ近づく。そういう心の状態をもって私共が、愈々進化して行く、言うならば神格化していくというか、その為に私達はです、信心さして頂いておるんだという事になってまいりますとね、いまもう例えばご利益を頂くから、おかげを頂くとかったような事は、実に小さい小さい事になるのです。この世に例えば生を受けて五十年、または七十年、まあ愈々長生きさして頂いて百年間、ね。
けれどもあの世は永劫である。あの世で例えばですね、折角人間に来たものが又、牛やら豚やらに生まれ変わらなければならない。いつどん人間に生まれ変わってこられるか、わからない程しの、もう千載一遇とはそういう事を言うのだろうとこう思う。その人間に生まれきあわせてもらいながらです。一生を只我心が神に向かうどころか、ますます汚れに汚れ、汚い事ばっかりを言いながら、不平不足を言いながら果てていく。ね、そしてそれで仏になるとか、神になるという事は絶対にない。
人が亡くなりさえすれは仏、これが普通でいうけれども。ね、人が亡くなったら、いわゆるほんとの意味に於いての成仏。もう何やらかにやら生まれ変わらんですむ程しの私に、ならして頂く為に、この世があるというていいのです。この世がだからあの世が大事なのです。それを、ね、死んだ先はどげんなるかわからん。もうこの世でうまい物は食べて、したい事はして、ね、といったような、所謂享楽主義とでも申しますか、享楽が出来るなら享楽をしとかなければ馬鹿らしか。
私共はそうではない、ね。すべてを神になる稽古にしていく、それが信心である。そこにいわゆるこれ程信心するのにと、いったような考え方は、もうさらさら、その根本的なところを私共がわからして頂いておればです。これほどのこれ程信心をするのに、どうしてというような時程です、私共はそのどうしてこういう事がと言うときに、言うなら難儀な時に、その難儀そのものを、大事にしていかなければならないかという事がわかりますね。その難儀こそが私共を一歩前進させれる。
て頂く事の出来れる、光を与えられたのだと悟らせて頂いて、愈々神になる事を楽しみの、信心でなからなければいけません。これはねこれはもうほんとに私はお釈迦様のおっしゃっておられる事が、そのどういう意味での表現か解りませんけれども、確かに私共はこの世に、魂を清めに来ておると言う事と言う事は、神になる事の為にこの世に生まれて来ておると言う事をです、ひとつ本気で知らにゃいけません。
そういう意味の事を日田の綾部さんとお話をしておりました。そこの信者控室で。ほんとに私その事を申しましたとたんに、今の信者控室を閉めてから話しよったんですけれど“バア-ン”とあのあれが、なんと言うですかね、あの小さい部屋が、もうそれこそもう爆発するような“おいさみ”を頂いたのですからね。確かに表現はそりゃ、生まれ変わり、とね、それは牛に生まれたり、犬に生まれたり、猫に生まれたりというふうに生まれ変わってくる。何故、生まれ変わらにゃならんかというとね。
生まれ変わる事によってわからせようとなさる天地の働きです。それを私共は悟らして頂いて、もう金輪際、牛やら馬にどん生まれ変わるようなことがあっちゃならない。人間に生まれ変わるという事、そのことが、有難い事としてです、その人間が愈々魂を清めて神になり、仏になることの精進をさして頂いてです、ね、永劫仏様としての働き、ね、神様としての働きが、出来れる程しの私達に向上しとかなければならない。
その向上というのは信心しておってもやはり起きてくる、どうしてこのような事がというような、この様な事がと言うそのものをです、ね、神様への一歩前進させて頂く所の機会と思い、チャンスと頂いていよいよ、どうして信心を進めていくかという事は、ね、愈々本心の玉を磨くことに又は、本心の玉をのうえにです、改まりを頂かせて頂きながら、そういう思いこみと、そういう姿勢をもって、日常生活をさして頂くという事がです、神に祭られる事を楽しむという事になります。
今日はここの四十二節をですね、もうご利益というかね、と言う事ではなくて、一心に信心していけばそこからおかげが受けられると言う事を、ね、一心に信心して行けば、そこから神になる事が出来、成仏する事が出来れる、言わば最高のおかげが受けられるという意味で頂きました、ね。そういうしら真剣な思いをする事をです、本心の玉の方へ焦点を置きますとです、ね、普通では磨けないところが磨けていけれる。普通ではとても改まっていけないことまで改まっていけれると言う事。
それが楽しいという信心をさして頂かなけれはいけんという事になります。人間が死にさえすりゃ仏になる。人間が死にさえすりゃ神に祭られると言う様な、安易な考え方は大違いなんです。ね、仏になる道を、神になる道を本気で極めようとするその精神。信心とは我心が神に向かうのを信心というのじゃと仰る様に、我心が神に向かうていくのを信心という事を思いこませて頂いたら、ね。
こう言う事によって、愈々神に近づかせて頂くんだと言う事になるから。人は信心のないものは困った事、難儀な事と言う事が、有難いと言う事にもなっくるのです。ね、ひとつ折角合楽に皆さん御神縁を頂いたのですからね。そういう大変な事を教えて頂くのですからね。本当にね魂を清めていく事の為に精進をしましょう、ね。そしてわかり易くお釈迦様は説かれた訳でしょうけれども、本当にそんな事じゃないと思います。
けども分り易く愈々人間が魂を清めていく事の為にです、ね、言うならばもう牛にやら馬んどん生まれ変わらんで済むような私になろうという事なんです。次の時代に次の世で。ね、折角この世に人間に生まれて来たという事だけでも、どの位御神意の深い御神意あって、生まれて来たかわからないのに、ね、それに気づかずして、また一生を無意に過ごすなんて、こんな勿体ない話はありません。
私共は様々な縁によってです、ね、金光教の信心を頂くようになった、合楽に御神縁を頂いた。そしてその事が解らして頂いた。信心とはもう魂を清める事の以外にはない。その為に様々な角度から、その道を教え説かれたのが教祖金光大神だとひとつ頂かしてもらい、そこん所を思いこませて頂いて、さあ今日はどの手で磨こうか、今日はどの手で改まろうかという意欲をもって、今日が過ごされなければならないと思いますね。
どうぞ。